「教えて先輩! DevRelの立ち上げ方」に続く「教えて先輩シリーズ」の第二弾としまして、JPA(Japan Perl Association)の初代代表理事、buildersconの立ち上げ、YAPC::Asia Tokyo時代のYAPC(Yet Another Perl Conference)の運営で知られるlestrratこと牧大輔さんにお話をうかがいました。インタビュアーはSmartHRのDevRelのinaoです。
前後編に分かれており、前編は主に牧さんご自身やYAPC、buildersconについて、後編は主にポストコロナの新しい技術イベントやYouTubeのノウハウについてのお話です。
(インタビューは2024年7月に行いました。内容は当時のものです)
- 生い立ち
- アメリカでのプログラマー時代
- 日本でのプログラマー時代
- 牧さん、プログラマー辞めるってよ
- YAPC::Asia Tokyoの運営
- YAPCからbuildersconへ
- buildersconの運営
- スタッフもお客さん
- トークの選考基準
生い立ち
inao:本日は牧さんから、主にイベントや動画について教えていただければと思っています。それに加えて、よろしければ「牧さんインタビュー」的な側面も持たせていただけるとうれしいです。我ながら「なんで『SmartHR Tech Blog』で?」と思わなくもないんですが(笑)、牧さんへのインタビューは15年くらい前のJPA立ち上げ時のものしかWebで目立つものはないようなので、せっかくの機会ですので。
lestrrat:はい。了解です。
inao:ありがとうございます。ではさっそく。牧さんは日本語にも英語にもご堪能で、BBQやパンへのこだわりとかが僕は印象的なんですけれども、差し支えない範囲でその背景というか、お生まれとかお育ちとかについて教えていただけないでしょうか?
lestrrat:うちの親の仕事の都合で、僕が生まれてすぐにブラジルに行き、ブラジルの中を点々と引っ越して、8歳で日本に帰ってきました。小学校6年の1学期が終わった12歳のときに今度はポルトガルに行って、中学校2年〜3年の間くらいまでいて、またブラジルに行って、ブラジルで高校を卒業しました。そこからアメリカの大学に行って、アメリカの中でも何回か引っ越してアメリカで仕事をして、27歳のときに日本に帰ってきました。
inao:へー。じゃあ、ポルトガル語もネイティブレベルなんですか?
lestrrat:小さいころはネイティブでした。ただ、若いときは外国語は使わないと一瞬で忘れるので、僕は8歳で帰ってきて、1年間でポルトガル語を一言残らずすべて忘れました。
inao:そういうものなんですね。
lestrrat:そうですね。なので、そのあと12歳でポルトガルに行ったときは、日本語以外しゃべれない子どもが突然アメリカンスクールに入れられましたね。
inao:そのころ、英語はしゃべれなかったんですね。
lestrrat:一言もしゃべれないです。
inao:そこからどうやって英語を勉強なさったんですか?
lestrrat:いや〜、無理やりです(笑)。アメリカンスクールに入って英語がしゃべれないと、ESLっていうのに入れられるんです。ESLはEnglish as a Second Languageの略で、普通の授業を受けながら英語を勉強するんですね。籍はESLにあるんだけど、行けるところは普通の授業を受けに行くみたいな。
inao:なるほど。そのあとは、ポルトガルから2度目のブラジルを経て、アメリカの大学に行かれたんですね。大学はコンピューターサイエンス系なんですか?
lestrrat:はい、偶然ですけどね。
inao:偶然?
lestrrat:偶然というのは、うちの親が、「理工系じゃないと大学に行く金は出さん!」って言うから「え!」となって、「う〜ん、じゃあコンピューターかな」という消去法でした。才能はなかったけど本当は当時、音楽をやりたかったんですが。
inao:本当は音楽をされたかったんですね!
アメリカでのプログラマー時代
inao:大学を出られてからプログラマー時代のご経歴はどんな感じになるのでしょうか?
lestrrat:大学を出た直後はアメリカにいたのでビザの関係とドットコムバブルが弾けた直後だったこともあって、新卒の何も技術のない人が仕事を見つけるのはなかなか辛くてですね。ちょこまか仕事はしていたんですけど、けっきょく3社目くらいに、当時インターネットで僕と一緒に活動していた知り合いが「うちの会社受ける?」と声をかけてくれました。それが今のNetApp、当時の名前はNetwork Applianceで、ファイルサーバーとかキャッシュとかを作っている会社です。そこに、「最低賃金でもいいから入れてくれ!」って言って無理やり入って、やっとまともな仕事に就けた感じなんですよね(※)。
ちなみに、その知り合いと一緒にやっていたインターネットの活動は、「日記猿人」っていう、Web日記の草分けみたいなサイトの管理です。
※実際はそれなりのお給料をもらえていたとのことです。
inao:日記猿人!?
lestrrat:今50歳前後でインターネットを当時やっていた人は、「あ〜、ありましたね」と言ってくれると思います。
inao:日記猿人はPerlでできていたんですか?
lestrrat:はい、PerlのCGIサイトでしたね。
inao:そこでPerlと出会われたんですか?
lestrrat:はい、仕事とそのサイトで必要になったので覚えた感じです。
話を戻すと、Network Applianceでは、QAテストを行うツールを作っていました。そこの会社はアプライアンスという名前からわかるように、サーバーを丸ごと売っている感じなんですよ。なので、サーバーの中身のソフトウェアを新しいバージョンに入れ替えてテストする、みたいなことをやる必要があるわけなんです。それをエミュレータでやってもいいんですが、最後はハードウェアにぶち込んでやる必要があって、それなりにステップも時間もかかるんですね。なので、そのへんを全部自動化して、テストを走らせて結果を持ってきて、みたいなツールを書いていました。
inao:すごいですね。
日本でのプログラマー時代
inao:そのあとどういった流れで日本に?
lestrrat:そのあと2001年にアメリカ同時多発テロ事件があったりして若干アメリカが息苦しくなってきたのと、もともと漠然といつかは日本に帰ろうかなと思っていたんです。そのタイミングとしては、30歳前だったら、「俺、日本の常識がない若造ですから」って何かヘマをしても大丈夫だと思っていたんですよね。30歳を過ぎたらもう帰れないなと思っていました。それで、26〜27歳のときに「帰るか〜」と思って日本でのアテを探していたら、たまたま僕が入っていたPerl系の質問とかをするPerlMonksというフォーラムサイトに、一人だけ日本人のハンドルネームがいて、miyagawaって言うんですけど。
inao:Rebuildで知られるmiyagawaさんですね。
lestrrat:「名前からすると日本人だよな? 日本で仕事ある?」って聞いたら「うちの面接受ける?」って言ってくれたから「じゃあ受ける!」となって、日本に帰りました。
inao:その時代の社名はなんですか?
lestrrat:ギリギリ、もうライブドアだったかな……? 僕が話しかけたタイミングはまだ六本木ヒルズに移る直前ぐらいで、僕が帰国したら六本木ヒルズに引っ越していました。
inao:ライブドア時代はどんなことをなさっていたんですか?
lestrrat:ライブドアは一回辞めてもう一度就職したのですが……。
たとえば検索サイトとかお金まわりをやりました。お金まわりを書けと言われたので書いていて、「どれくらいの人数が来るんですか?」と聞いたら「まあ、たぶん最初は3万人くらいじゃないかな」って言われたのでそれに向けて進めていたら、あと1ヶ月でオープンという段階になって「ごめん! 初日たぶん30万人来るわ!」って言われて、「おお……! なんでですか?!」と言ったら「CM打ったから!」って言われて。「あー、それもっと前に言えなかったんですか?!」なんてこともありましたね(笑)。
inao:たいへん! 無事にオープンできたんですか?
lestrrat:大丈夫でした……けど、開店直後に支払いで何かが詰まって、社長にうしろから睨みつけられながら直すっていうのはありましたけど(笑)。
inao:さすがです(笑)。
lestrrat:ライブドアのあと、別な会社に入って合わずにすぐ辞めて、そのあとしばらくフリーランスをしたり、自分の会社であるendeworksを2006年に作って主に業務委託的なことをやっていましたね。JPAを作ったのもこの間です。本業は人も雇っていたんですけど、オーダーがキャンセルになるとかいろいろあって給料が払えなくなりそうだったので畳もうってなって、またライブドアに戻るんです。endeworks自体は今も残っていて、書類上は20年近くやっています。
inao:激動ですね。
lestrrat:ライブドアに戻ったあとは、認証まわりをやったり、自分が以前書いたお金まわりのコードを書き直したり、ライブドアブログの中身の書き換えみたいなことをやったりとか。あとはkazeburoさんとテレビ連動のめちゃくちゃリアルタイム性を求められる企画とかもやりました。kazeburoさんと二人で0.1秒でも速く、みたいなことをやっていました。速さのほうは主にkazeburoさんにお任せでしたけど!
inao:強いお二人ですね。ライブドアさんのあとはどうされてましたっけ?
lestrrat:何社かを経て、メルカリに行きました。
牧さん、プログラマー辞めるってよ
inao:メルカリさんではプログラマーではなかったんですよね。「牧さん、プログラマ辞めるってよ」というブログに詳しくお書きになっていますけど、プログラマーをお辞めになろうと思われた理由を、あらためてお伺いできますか?
lestrrat:うーん、僕は自分がプログラムを大して書けないと思っていました。ただ唯一、人よりマシだなと思っていたのが、量は書けたんですよね。だからトライ・アンド・エラーはものすごいできた。書いてみてダメ、書き方を変えてダメの繰り返しをどんどんやっていったので、いつか正解にたどり着けたんですよね。だけど、それがちょっと遅くなってきたなって漠然と感じてきていました。加えて、当時から機械学習だAIだって言い始めているころだったので、機械学習もAIもすごいとは思うけど興味なかった。
当時、ご存知のとおり僕はカンファレンスの運営を十何年とやっていましたし、会社をやっていたから会計もできるし、法律のこともちょっとわかるし、それらの搦め手でエンジニアのヘルプみたいなことができるなと思って、その方向に行きたいと思った感じですね。
inao:なるほど。このころもプログラミングはされているんですよね?
lestrrat:はい、もちろんOSS活動はずっとしていますし、必要であれば当時もいろいろ書きました。今は3Dプリンティングにはまっているのですが、突然CADソフトウェアのプラグインを書いてみたりとかね。別にプログラムを書くことをやめたわけでなくて、「これで毎日飯を食っていくのはどうかな〜」と当時は思った感じですね。
inao:プライベートで一番お書きになるのはGoが多いんですか?
lestrrat:Goが一番多いです。
inao:私の前職時代は「WEB+DB PRESS」で長らく「Goに入りては……」をご連載くださいましてありがとうございました。
lestrrat:いえいえ、こちらこそお世話になりました。
inao:3Dプリンティングは楽しいですか?
lestrrat:はい、楽しいですよ。3Dプリンターは2台目を買って、一番最近はルービックキューブを作っていましたよ。その模様は僕のYouTubeを見てください。最近はなるたけYouTubeショートにするようにしているんですよね。
inao:へー。ショートは何が良いんですか?
lestrrat:ショートだと、わりとパッとどこにでも貼り付けられて、なおかつわりとビュー数が稼げます。ちゃんと中身を知ってほしいとかだと微妙すぎるんですけど、見せたいだけだったらこれで十分ですね。
inao:なるほどー。現在はgihyo.jpで「3DP ジャングル」という3Dプリンティングのご連載もされていますね。
lestrrat:はい、無理やりお願いしました(笑)。
YAPC::Asia Tokyoの運営
inao:ここからは、いよいよ教えて先輩シリーズとして、イベントなどのお話をお伺いしていこうと思います。ここまでもちらっと登場していましたけど、牧さんの技術コミュニティとの出会いから、YAPC::Asia Tokyoに至るまでの流れをお伺いできますか?
lestrrat:まず、さっき言ったように、アメリカでぽっと出の新卒が仕事を見つけるのは辛かったんですよね。そういうのをどうにかするためには、技術力はもちろん人との繋がりも必要だと思ったので、アメリカにいたころからフォーラムとかそういうところに顔を出すようにしていました。質問に答えたり質問をしてみたり、ディスカッションに加わってみたりとかそういうのをし始めたんですよね。当時も今ほどじゃないにしろカンファレンスとかがちょこちょこあって、行きたかったんですけど当時は機会がありませんでした。日本に帰国したあと、miyagawaさんとかが日本でYAPCをやるって言うから、どうせ参加するんだったら参加者よりスタッフのほうがいいなと思って、2年か3年かスタッフをやっていたんですよね。
inao:一番最初のYAPC::Asia Tokyo 2006からされているんでしたっけ? 。
lestrrat:日本のやつはたぶんしていると思うんですけど、その前に僕の知らない、たぶん日本にいないときに、RubyとPerlのイベントがあったらしいみたいな話を聞いているんですけど。
inao:YARPC(Yet Another Ruby/Perl Conference)19101ですね。僕、行きました。
lestrrat:それには出てないんですよ、僕は。
inao:日本で一番最初にLTが行われたイベントですよね。
lestrrat:そうそう、それ。
inao:最初はスタッフとして関わられて、メインでされるようになったのは何年からですか?
lestrrat:YAPC::Asia Tokyo 2009~2015を僕がメインでやっています。
inao:YAPC::Asia Tokyoが始まった2006年当初はJPAはないんですよね。
lestrrat:ないですね。私の記憶が正しければ、最初は0yamaさんが個人の口座でお金周りを見られていたと思います。そのとき0yamaさんが苦しんでいるのを見て、「ちゃんと会社なり法人なりでやればいいんじゃないの?」みたいな話をしたんですよね。僕としては「主宰の皆さんで会社やればいいのでは?」と言ったつもりだったんですけど、彼らの頭の中では「俺(牧)がやる」になっていたらしく、あとで僕がやる気がない話をしたら「話が違う!」と言われて、最終的に2008年12月に僕が作り、初代の代表理事になりました。そして翌年のYAPC::Asia Tokyo 2009からメインで運営しました。
inao:YAPCをメインで運営されることになったのはどういった経緯ですか?
lestrrat:ほかの人が辞めちゃったから(笑)。「あっ、俺しかいないの?」ってなった。YAPC::Asia Tokyo 2009のときは1度目のライブドアを辞めていたころなのですが、これまた僕の記憶が正しければ、ライブドアのikebeさんとかに「つれぇ」みたいな話をしたら、「じゃあ、この使える男を送ってあげます」って言われて来たのが当時ライブドアの941さんですね。
inao:なるほど。牧さんと941さんはナイスコンビでしたよね。
lestrrat:はい。僕は二人での運営はとても気に入ってました。
inao:じゃあ、大きなイベントの運営はYAPCから始められたんですね。
lestrrat:そうですね。それまではやったことなかったですね。いや〜、チケットが売れるかどうか、プレッシャーでもう血反吐吐きそうでしたね! まあでも当時は、チケットが売れなかったところで経費はそこまでの金額ではなかったので「まあ、最悪自分で肩代わりできるわ」と思っていましたけど(笑)。
inao:そんな状況だったんですね。そして牧さんが代表理事時代の2010年にJPAさんの監修で始まった「WEB+DB PRESS」でのリレー連載「Perl Hackers Hub」は、2023年の雑誌の休刊まで10年以上にわたって続いた長期連載となりました。長らくご監修くださりありがとうございました。
YAPCからbuildersconへ
inao:YAPCからbuildersconに至る流れを教えていただけますか?
lestrrat:何年もやっていると面子が一部固定されがちになったのが気になったことが一つあります。これはもう同じコミュニティでやっていると、どうしてもしょうがない面はあると思います。
あとは、もともとはトークの内容的にプログラミングで何か作る話が多かったのが、段々効率の良い開発手法だったり、プロジェクトマネジメントみたいな話だったりが増えてきたのが少し気になっていました。
そこから考えてPerl、引いてはプログラミングメインという縛りが少し気になってきていました。プログラミングの話が多くてもいいんですけど、buildersconで言う「スーパーカミオカンデの開発と運用」とか、もっとほかの世界の作る系の話も聴きたかったんですよね。
最後のほうのYAPCはPerlだけのカンファレンスではなくしていました。当時は参加者数などの拡大路線を目指していて、そのためにはPerlだけだと成長し続けることはできないと思っていたので。
そういうこともあり、ノンジャンルで人を集めたほうがおもしろいことができるんじゃないかと思って、当時から僕はもう、宇宙系の話が聴きたくてしょうがなかったので、そういうのも「buildersconなら呼べる!」とか思って考えた次第ですね。あとはしくみを作って、できれば別の人が引き継げるようにしたかったです。
YAPC::Asia Tokyoのラスト(※)である2015年は、僕はもうだいぶ燃え尽きていました。
※現在のYAPCは、YAPC::Asia TokyoではなくYAPC::Japanです。https://japan.perlassociation.org/entry/yapc
inao:そうだったんですね……。
lestrrat:はい。当時はまだ「デカい箱でやる」という物珍しさと使命感に燃えていたので生きていましたけど、中身はだいぶ燃え尽きていました。
inao:「デカい箱」はどれくらいでしたか?
lestrrat:あのときが2100人超えで。
inao:2100人超え! 会場どこでしたっけ?
lestrrat:ビッグサイトです。
inao:あ〜、すごいですね。
buildersconの運営
inao:YAPC::Asia Tokyoのラストが2015年で、buildersconの最初はいつでしたっけ?
lestrrat:翌年の2016年ですね。そこから2019年までは毎年やって、2020年はパンデミックで中止になりました。なので開催したのは4回です。
inao:buildersconをやってみていかがでしたか?
lestrrat:おもしろかったですよ。おもしろかったですけど、なんだろうな。やってよかったとは当然思っているんですけど、う〜ん。
inao:当時の理想のイベントを開催できましたか?
lestrrat:まあできていたとは思います。ただやっぱり、これは半分以上僕が悪いと思うんですけど、うまく責任を分散できていなかったというか、僕が決定しないといけないことが多すぎて非常に辛かったですね。僕がやりたいことを全部詰め込んだやつだったので、僕が決めないといけないことがいっぱいあったんですけど、もっと諦めればよかったですね。
inao:なるほど。
lestrrat:それもあって、2019年には完全に燃え尽きてしまいました。だから、パンデミックが起こっていなかったとしても、2020年は僕が主催することはなかったです。
inao:そうだったんですね……。その当時を振り返って、ブログに「個々の人はともかくコミュニティというものにあまり近づきたくない、というかもしろ近づくと胃に穴があきそう」とお書きになっていますね。
lestrrat:けっきょくボランティアベースのコミュニティ活動で主宰とかをすると、必ずしも自分が掲げているテーマとかに100%賛同している人たちが集まるわけではないのですよね。テーマの一部には賛同するけど、ほかの部分は嫌と思っているってこともあれば、友達がやっているから自分は大して思い入れがないけど付き合いで、みたいな人もいる。あと、すごい働いてくれる人もいれば、適当に仕事をこなしている人もいる。みんな助けてくれたり、参加してくれたりしてありがたいのですけど、重要なのは私も含めて表面上は同じコミュニティでも、それぞれ思惑や期待値が違っていたりすることですね。
そういう中でボタンの掛け違えみたいなことがあると、いろいろと調整が必要だけど、でも自分もボランティアでやっているはずなのになんだかすごい時間や労力を取られたりして、最終的には「あれ、俺なんでこれやってるんだろう?」って思っちゃったんです。いったん思っちゃうと負のスパイラルでどんどん辛くなって、自分のコミュニティでの動きも鈍くなってしまったり、あまりいい状況ではなかったですね。
inao:イベント主催者がこう、燃え尽きてしまわないためのアドバイスとかあったりしますでしょうか?
lestrrat:いや〜、いくらやっても心が折れていない方々もたくさんいて、そういう人たちは飄々とやれているので、心が強い人なら最初から何もしないでも大丈夫なんじゃないかな。自分の我を通し続けられるとか、言われたことにいちいち傷つかないとか。その人の特性によってだいぶ違うと思います。
僕はまあ、さっきも言いましたけど、もし続けるんだったらもっと色んなものを委譲しちゃって、僕は最後の最後に「それは良いんじゃない?」「それはやめておいたほうがいいんじゃない?」という意見を言うだけの立場になっておけばよかったなと思います。
inao:今年のbuilderscon 2024には関わられているんですか?
lestrrat:オブザーバー的にはやっていますし、法人とかそういうところは彼らは作っていないので、僕のendeworksを使ってやることはありますけど、内容に関しては何もやっていないです。「Tシャツスポンサーがほしい!」と言われたので「それはもちろん出しますよ」と返しましたけど、その程度です。再開してくれた今年のスタッフ、特にnasa9084さんには感謝しかないですね。
スタッフもお客さん
inao:最近はGo Conference 2024のイベントスタッフをされたそうですけれども、いかがでしたか?
lestrrat:このブログに書いたとおりなんですけど、基本的には良いイベントでしたねっていうのと、あたりまえに「ああ、やっぱりイベントが違うと文化が違うな〜」っていう感じですね。大枠では変わらないですけど、やっぱり少しずつ重きを置いているところが違うな〜という感じでした。
inao:重きを置いているところはどのように違いましたか?
lestrrat:別に僕らがやっていたのが正しいということでは決してないのですが、強いて言えばトークの選考基準とか。あと、僕と941さんはわりと最初から「スタッフもお客さんだ」と言いながらやっていたので、スタッフから運営以外の食事とかについて心配される前に用意していたりしました。その辺は単純に文化の違いってだけなので、参加している人たちが楽しければそれでいいと思っています。今聞かれたから強いて言っただけですからね!(笑)
inao:ありがとうございます。「スタッフもお客さん」を深堀っていただくとどういう心得ですか?
lestrrat:労働力を提供してもらうために来てもらっているんだから当然働いてもらいますけど、たとえば働いてもらう代わりに絶対腹は空かせないし、楽しんでもらうし、「これは辛い」と思うことはさせない(※)みたいな、そんな感じです。さっきも言ったように僕はYAPCでもbuildersconでも、とにかく弁当にはものすごく気をつけるようにしていました。ボランティアが空腹でいるのだけは嫌なので……。
※ただ、最初のころは「地獄のノベルティ封入ベルトコンベア」という辛い作業もあったとのことです。
inao:すばらしい。
トークの選考基準
inao:牧さんのトークの選考基準は、どういうところに重きを置いていましたか?
lestrrat:基準自体は少しずつ変わっていくものなので、常に一定ではないです。編集者のinaoさんはやっているので絶対わかると思うんですけど、原稿の見出し案をもらったときに、原稿が何を話すのかわからないとけっきょくわからない原稿になるじゃないですか。それと同じで、何を言っているんだか伝わらないプロポーザルは残念ながら全部落とします。
ここら辺の線引きがちょっと難しいんですよね。プロポーザル文をいっぱい書けば伝わるっていうものじゃないし、テーマがくだらなくてもちゃんと伝えたい内容がわかるんだったら、意味が伝わらないものより先に選びます。あとは、何を話しているのかがわかったうえで、その人の自分のスパイス的なものを効かせてくれる人、「あなたは違う視点からやっているのね」が見えるものはやっぱり優先して選んでいるとは思います。
スタッフ全員でレビューして純粋に点数で決めるイベントもありますが、僕がやっていたころは点数をつけたうえで、観客から見てエンターテインメント的にどうとらえられるか、みたいなことも加味しながらやっていたとは思います。
inao:なるほど、ありがとうございます。僕も最近イベントの運営をやり始めたんですけど、まだ僕が経験ないのがマルチトラックなイベントです。複数のセッションを同時にやる場合の裏番組の考え方とか並べ方とか、どういった感じでプログラムを組まれていましたか?
lestrrat:裏番組はあれですね、すべてに当てはまるわけじゃないんですけど、明らかに強いセッションの裏には、さらに強いのをぶつけます。当時もよく登壇者から恨み言を言われました。
inao:そうなんですか!
lestrrat:なおかつ、明らかに強いコンテンツが集まるところはなるたけ早い時間帯に持ってくるようにしていました。
inao:そのお心はなんでですか?
lestrrat:店舗設計とかの話でシャワー効果というのがあるのですが、それと似たような感じで、朝それを聴きにみんなが来れば、そのまま会場にいてくれるのを期待していました。
inao:なるほど。明らかに強い者どうしを並べる以外に、並べ方の心がけとかありますか?
lestrrat:強さ的にはだいたい同じくらいだけど、違うタイプの話を並べることが多かったです。こっちは技術の深堀り、こっちは使ってみた系、こっちはコミュニティ系の話みたいに、全参加者がどこかのトラックに興味を持ってもらえるように調整できるところはしていたと思います。
inao:あー、なるほど。雑誌の特集の選び方に近いものがありますね。1つの号に特集は2〜3個あるのですが、同じ号で同じカラーの特集は掲載しないようにしていました。であるならば、僕が考えるときは、1年間を通した雑誌の特集みたいにとらえると、マルチトラックのイベントのコンテンツを考えやすいかもしれないです。1つの号=マルチトラックイベントのある時間帯ととらえて、複数の号が並んでいるみたいな。実際にどこまで適用できるかはわからないですけど、とっかかりやヒントにはできそうです。
前編はここまでです。
後編では、前職のメルカリさん時代の話をお伺いしつつ、牧さんが考えるポストコロナ時代の新しい技術イベントや、YouTubeのノウハウについてお聞きします。